2001年11月    



視 点

 地球規模の切迫した諸問題を学術的見地から明確にするという国連大学の使命に鑑みて、国連大学ネクションズは毎号「視点」欄を設けている。今回の筆者、ラメシュ・タクールは「平和とガバナンス」プログラム担当の国連大学副学長。「視点」の内容はあくまでも筆者の個人的見解であり、かならずしも国連大学の意見あるいは方針を代表するものではない。(編集部)

国境なき正義、あるいは国境を越える不正義?

ラメシュ・タクール

 勝者側による正義とは異なる、普遍的正義を模索する試みはこの数年、数多くの劇的曲折を経てきた。行動主義者が国境なき正義の一義的優越性を主張するのに対し、懐疑派は、国家を基本とする世界秩序の政治的現実から逸脱すれば、国際的なアナーキー状態を招く危険性があると警告し、反対派は、国境を超えて不正義がはびこることを恐れる。国家主権に対する挑戦にもまして懸念されるのは、新しい世界秩序維持の道具として未知の兵器が使われる可能性が予測できないことだ。それが威嚇、復讐、あるいは有害な目的に乱用される可能性はほぼ無限にある。

 過去数世紀続いた国家主権の不可侵性に基づいた文化から、現代が受け入れる国際的説明責任の文化への移行期にあっては、正義が正しく行われたケースと正義が行われたかに見えるケースの違いに関して4つの議論を提起することには意義があるだろう。

 まず、国連の援助隊員3名(アメリカ国籍、クロアチア国籍、エチオピア国籍各1名)を殺害した容疑で逮捕されたインドネシア帰属を望む民兵6名に対してジャカルタの裁判所が今年5月4日、禁固10カ月から20カ月の判決を下した、東ティモールのケースは「正義が行われたとは思えない」ケースである。民兵6名は国連要員を刃物や投石で死に至らしめ、死体に火をつけて焼くという、国連要員がこれまで世界のいかなる場所でも受けたことのない残虐極まりない行為を行った。この判決は、その犯罪行為の重大性に照らして明らかに妥当性を欠いており、したがって、国際社会を公然と侮蔑するに等しいものである。

 第二は、インドネシアのスハルト元大統領とチリのアウグスト・ピノチェト元大統領の二人のケースで、いずれも「いまだに正義が行われてはいないと思われる」。過去に非人道的残虐行為あるいは大量殺戮、民族浄化などを行った者は自国での自由で公正な裁判により裁かれるべきである。ただし、最終的には、裁判に掛けるのか、それとも真実解明と和解のための委員会を設ける道を選ぶのかという判断は、当事国とその国民が決めることで、外部の人間が決めるものではない。

 とくにヨーロッパの人びとは、被害を受けた社会が自ら下す選択の代わりに自分たちの裁判やモラルを押しつける「司法の植民地主義」による新たな世界席捲の誘惑に駆られてはならない。アリエル・シャロン、あるいはそれ以外の元政府首脳や国家元首(あるいはヘンリー・キッシンジャーのような閣僚)が他国の捜査機関の依頼で第三国であえて逮捕される危険を冒すといったことは、明らかに不合理である。スペインの要請で滞在先の英国で逮捕されたピノチェトの例はまさにそれであった。

 第三は、「正義が行われることはないであろうと思われる」ケースで、ハーグの国際戦犯法廷におけるスロボダン・ミロシェビッチがその例である。歴史上初の元国家元首を裁く国際裁判として、いずれにしろ多くの困難を伴うであろうことは十分に予想された。しかし、1999年の北大西洋条約機構(NATO)によるセルビアに対する非合法的戦争はそれ自体が従来の論理の範疇からすればかなりの問題性を帯びていた。国際戦犯法廷は現在、NATO加盟国に置かれており、裁判に掛かる費用は主に各加盟国からの拠出金でまかなわれる。戦時中の行為に関してNATOが提出した証拠に基づくミロシェビッチ起訴は、裁判手続きが持つべき刑事上の公平性を安全保障にからむ政治的計算で汚すことになった。さらに、戦争犯罪人としてのミロシェビッチとその側近たちの起訴自体、同じくNATO主要加盟国の影響力によるものである。

 米国の国際刑事裁判所(ICC)への参加拒否は、アドホックに開設される国際戦犯法廷に対する米国のモラルのあり方と大きく矛盾する。アメリカ国民が政治的動機から訴追されることへの危惧が米国のICC不参加の公式理由だが、そのことは、悪魔視される反対者あるいは敵を、安全保障理事会のような、政治色の強い機関で選択的に訴追してきた自らの経験を踏まえてのことではないかと考えざるをえない。ユーゴスラビアには、ミロシェビッチの身柄をハーグに引き渡した直後に13億ドル近い経済援助が約束された。ミロシェビッチの運命を左右した主だった要素は、公正な裁きへの関心よりも、むしろこうした経済がらみの国際的脅迫と国内の主導権争いであった。

 アドホックの戦犯法廷は、ICCの場合に予想されるよりも、国際法の執行手続きをさらに力の政治に左右されやすいものにしている。法の原則は、普遍的正義という大義を達成するために使われるべきもので、政治的利害の調整や勝者による正義の追求の道具に使われてはならない。

 99年のセルビア空爆以後、保護部隊であるNATO軍兵士の目と鼻の先で繰り広げられたアルバニア系コソボ住民による逆の民族浄化行為を含めて、バルカンの敵対勢力によるセルビア人に対する集団的犯罪行為を、同様の厳しさで告発できなければ、セルビア人の間の被害者意識を高めることになる。したがって、いまもっとも必要とされるのは、セルビア国内で公開裁判を行い、セルビア人の名のもとに犯罪が行われたことを、議論の余地のない証拠を付きつけてセルビア人にしっかりと理解させることだ。かれらこそ、まだ記憶に新しい醜い過去を自ら直視し、自分たちの同胞の中にいる犯人に罪の償いをさせたうえで、新しい生活に向かうべきなのだ。国内の政敵との対抗関係を憲法に基づく法廷に優先させることはどう見ても健全な回復力を備えた民主的統治機構の定着と強化につながるとは思われない。

 第四に、そうした疑問は別にしても、ミロシェビッチに関しては、ハーグでの裁判で「正しい裁きを受けさせるべきであり、そうならなければならない」。1990年代のバルカン地域における悲しむべき出来事は、第二次大戦後初めて欧州に強制収容所の被害者たちの忌まわしいイメージを思い起こさせた。ミロシェビッチは、過去10年間に起きた殺戮、婦女暴行、民族浄化の多くの中心にいた人物である。ようやく天罰が下り、やがて報いを受けるであろう。一日が終わるとき、正義が行われ、その罪の重さにふさわしい判決が下るであろうことを信じて、我々は静かな満足感とともに眠りに就くことであろう。今回のケースは、国際刑事裁判所のもとで、全世界の支持を得た普遍的正義が行われる日へ向けた小さな、しかし意義のある一歩となるであろう。

 

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