2004年6月16日付け 高知新聞記事より

本記事は2003年7月3日に高知新聞との共催により高知市にて開催された、高知新聞社創刊100周年記念シンポジウム「高知地球大学〜21世紀を創る〜」に先立ち、6月16日付同紙に掲載された関連記事より許可を得て引用したものです。

 

講演やパネル討論で高知から世界考える
高知地球大学〜21世紀を創る〜



来月3日「かるぽーと」

   本社と国連大学共催 聴講者1000人募集

イラクの混迷ぶりと比例して「国連」への期待が高まっている。

 正式名称はUnited Nations(国際連合)。世界百九十一カ国が加盟し、紛争や人権、環境保護などあらゆる問題を話し合う場となっている。

 ユニセフ(国連児童基金)やユネスコ(国連教育科学文化機関)など国連機関は数多いが、その中で唯一、本部を日本に置いているのが国際連合大学。その国連大学が高知新聞社と共催し、地方では珍しい一般対象のイベントを開く。

 七月三日、高知市の「かるぽーと」で開く「高知地球大学」。宇宙飛行士の毛利衛さんや前駐米大使の柳井俊二さんらを招き、高知と世界を話の輪で結ぶ。


東京の青山通りに面したピラミッド型の国連大学ビル。国連大学本部や各国連機関の東京事務所が入っている(渋谷区神宮前)
「高知地球大学」は七月三日、午後一時から五時まで高知市九反田の市文化プラザ「かるぽーと」で開かれる。講演、パネルディスカッションの内容と聴講の応募要領は次の通り。

 記念講演「個人と地域と宇宙のつながり」=毛利衛さん(宇宙飛行士・日本科学未来館館長)▽基調講演「日本の歩むべき道〜世界の視点から」=柳井俊二さん(国連大学学長上級顧問、中央大学法科大学院教授、前駐米大使)▽パネルディスカッション「21世紀を創る〜高知、日本、そして世界へ向けて」。パネリスト=毛利衛さん、柳井俊二さん、横田洋三さん(国連大学学長特別顧問、中央大学法科大学院教授)、エバ・ガルシア・デル・サスさん(高知大学医学部助手)。コーディネーターは橋本大二郎知事。

 参加費無料。定員千人で、多数の場合は抽選。対象は中学生以上。

 申し込みは郵便番号、住所、氏名、年齢、電話番号を明記し、はがき、ファクスで。託児ルーム希望者はその旨を明記すること。

 問い合わせ、申し込み先は〒780−8572高知市本町3―2―15、高知新聞広告局「高知地球大学」(電話088・825・4031、ファクス088・824・6669)へ。申し込みは二十四日必着。

*本シンポジウムは既に終了しています。



国連大学エトセトラ



歴 史
ウ・タント氏が提唱



 国連大学は一九六九年、時の国連事務総長ウ・タント氏によって提唱された。

 当初彼は普通の大学を設立しようと考えていた。しかし否定的な意見もあり、学生が学ぶ普通の大学ではなくシンクタンクとして発足することになった。

 ウ・タント構想にいち早く反応したのは当時の佐藤栄作首相だった。「第二次世界大戦から四半世紀たち、国際社会の仲間入りを模索していた」「日本の大学に国際化という刺激を与えたかった」などが動機だったといわれている。

 日本政府は国連大学基金への一億円の拠出を表明する。併せて本部施設の建設も申し出た。それを受け、一九七二年の国連総会で大学設立が正式決定する。七三年には国連大学憲章が採択され、七四年十二月、東京の帝国ホテル内に大学本部を開設した。


性 格
シンクタンク機能



大学と名前は付いているものの、国連大学には先生も学生もいない。

 性格付けすると、一義的にはシンクタンクになるだろう。つまり、さまざまな戦略を研究する頭脳集団と言っていい。加えて主に途上国の研究者たちの教育を担うという側面もある。

 現在の活動領域は「平和とガバナンス」と「環境と持続可能な開発」の二つ。「平和とガバナンス」にはラメシュ・タクール副学長、「環境と持続可能な開発」は安井至副学長が担当し、その下で学術審議官、学術研究官らのスタッフが活動している。


学 長
国連事務総長が任命




国連大学の意志決定機関は国連事務総長らで構成する「理事会」で、ここが基本方針を決める。とはいえ財政的に国連から自立していることもあり、独立性は高い。

 理事は国連事務総長とユネスコ事務局長が任命し、学長は国連事務総長がユネスコ事務局長の同意を得て任命する。これまでの学長の国籍はアメリカ、インドネシア、ブラジル。現在のハンス・ファン・ヒンケル学長はオランダ人。


国連大学が2002年7月にリトアニアで開いた国際シンポジウム「経済移行国の山岳開発プロジェクトにおける研究と高等教育の役割」のフィールドトリップ風景。国連大学は世界各地でさまざまな活動を展開している。

カ ネ
6割を寄付で賄う




国連大学は国連の通常予算からは資金の配分を受けていない。年間収入の六割を担っているのが国や団体、個人からの寄付。三割は国連大学基金の利子で調達し、残り一割は出版物の売上金などの雑収入で賄っている。

 これまでに寄付を出した国は延べ五十カ国。日本が最大の資金供出国で、次が英国。後はベネズエラ、サウジアラビア、イタリア、ドイツの順になっている。

 ちなみに二〇〇二年度は歳入が二十八億八千万円、支出は十九億四千三百万円だった。


UNハウス
格調高いピラミッド




国連大学の入る国連大学ビル(UNハウス)は東京都渋谷区神宮前にある。地下鉄の表参道駅から歩いて五分ほど。青山通りに面した、ピラミッド型のビルだ。

 七千平方メートルの敷地に地上十四階、地下一階。敷地はもともと都電の車庫だった。敷地は東京都から無償提供を受け、百三十億円の建設費は日本国が負担して建設された。

 完成は一九九二年。設計したのは丹下健三氏で、国連機関らしい格調ある雰囲気を醸し出している。国連大学広報部の望月章子さんによると、「建物の認知度は高く、『ロケに使わせてほしい』などの問い合わせがよく入ります」。

 一階と二階はギャラリーになっていて、一般の人も入って鑑賞することができる。三階には八カ国語の同時通訳設備を備えたウ・タント国際会議場。国連大学本部のほか国連児童基金、国連難民高等弁務官事務所など十一の国連機関の東京事務所も入っている。



 《講師プロフィール》
  ▼記念講演、パネリスト 毛利衛氏

 昭和四十五年北大理学部卒。専門は真空材料表面科学。六十年に北大助教授から宇宙開発事業団宇宙飛行士に転身、平成四年九月にスペースシャトル、エンデバーに日本人科学者として初めて搭乗する。十二年に再びエンデバーに搭乗し、同年十月から日本科学未来館初代館長。著書に「宇宙の風」(朝日文庫)「宇宙からの贈り物」(岩波新書)など。

  ▼基調講演、パネリスト 柳井俊二氏

 昭和三十六年東大法学部卒。外務省に入省し、平成二年条約局長。総合外交政策局長、外務審議官を経て九年外務事務次官。十一年駐米大使。十四年に退官し、中大の法学部教授を経て現在は法科大学院教授。著書・論文に「条約締結の実際的要請と民主的統制」(国際法外交雑誌)「日本のPKO―法と政治の10年史」(中央大学法学新報)など。

  ▼パネリスト 横田洋三氏

 昭和三十九年国際基督教大教養学部卒。五十四年国際基督教大教授に就任し、平成七年に東大大学院法学政治学研究科教授、十六年中大法科大学院教授。昭和四十九年から約二年間は世界銀行法律顧問を務め、現在は国際連合の人権促進保護小委員会委員。著書に「国際機構の法構造」(国際書院)「日本の人権 世界の人権」(不磨書房)など。

  ▼パネリスト エバ・ガルシア・デル・サス氏

 スペイン生まれ。昭和四十八年に観光旅行で初来日。五十年に再来日し、和紙を勉強するため本県へ。高知医大の論文翻訳を手がけ、平成八年に同医大助手。教授や学生、看護師らと「アジア・僻地(へきち)医療を支援する会」を立ち上げ、インドネシアのニューギニア高地でマラリア治療などに役立つ簡易保険所の開設や医療支援を継続中。

  ▼コーディネーター 橋本大二郎氏

 昭和四十五年慶大経済学部、四十七年法学部卒。日本放送協会に入局し、福岡放送局、大阪放送局などを経て六十三年報道局社会部副部長、平成三年科学文化部次長。同年八月に退局し高知県知事選に立候補、当選。現在四期目。著書に「土佐発 情報維新」(徳間書店)、「未来日本の構図」(くまざさ社)など。


2副学長インタビュー

国連大学の内容について、「平和とガバナンス」担当のラメシュ・タクール上級副学長と「環境と持続可能な開発」担当の安井至副学長にインタビューした。大学本部が日本にある意義や理念、具体的な活動、そして高知県民へのメッセージ…。さまざまな角度から話を聞かせてもらった。


安井至氏
(「環境と持続可能な開発」担当)
「日本にとっても国連大学は守るべき対象」と話す安井副学長(国連大学)

世界全体の役に立つ機関を日本国民が支えてくれている

 ―副学長になった経緯を。

 前任者から「副学長の一人は日本人がなるべきだ。公募に応募しろ」とと言われまして。運営資金の四割は日本国民の税金で賄われてますので、日本との関係は円滑にいかなきゃいけないということが背景にあったんでしょう。大学本部が日本に立地していることもありますし。

 ―安井さんに白羽の矢が立ったのは?

 もともと私は材料屋だったんです。環境屋に変わって十五年から二十年くらいになるでしょうか。(環境関係の)日本の学会に対する重しになるという点と、国にもある程度顔が利くということでしょうねえ。

 ―苦労は?

 時間的につらい。それと、大学の研究室との違いにも戸惑っています。(大学教授をしていた)今までは、予算さえ確保すれば研究室の末端まで意思を徹底させることができました。ところがここでは(学術研究官などの肩書を持つ)オフィサーが各自の研究室を持っていて、それぞれの予算とスタッフを率いて動いている。私の意思が通じるまで時間がかかります。

 ―オフィサーとは。

 オフィサーというのは研究者ではないんです。研究者じゃなく、アレンジャーですね。どういうことかというと、途上国には教育の機会に恵まれない人たちがたくさんいる。片や有能なプロフェッサー(教授)も山ほどいる。ある場所にその双方を集めて大学のような学ぶ場をつくる、それがオフィサーの役割なんです。だからオフィサー自身は研究者ではないが、研究者としての能力がないと務まらない。なにしろ一流のプロフェッサーたちに対し、提案して信頼関係を築かねばなりませんから。常々私は「研究者としての能力を高めろ」と言っています。

 ―オフィサーの仕事をもう少し具体的に。

 アイデアの勝負なんです。いったいどこに解決のポイントがあるか、を探る。そうして「この国のここでテストしよう」と考える。で、「自分はこういう所でこういうことをやりたい」と提案して予算が付く。現地でやるのはニーズの発掘研究というか、解決法を考えてそれを導く教育です。途上国の人たちを集めて教えていく。

 ―どんな内容を?

 現在、世界に十五くらいの研究所・研修所があります。例えばアイスランドでは地熱発電の教育をやっています。途上国の人を同国に呼んで六カ月間講義しているんです。ガーナでは間もなく農業教育をやります。持続可能な農業です。

 ―オフィサーがそれぞれプログラムを抱えている

 オフィサーが一つか二つのプロジェクトを持っています。あるオフィサーはパミール高原の自然保護と環境というテーマでやろうとしています。エネルギーもない、産業もないところで木を切らないでやれるのか、難しい課題です。木を切ってエネルギー源にしている人間に木を切らせないのはかなり難しい。果樹を植えると木を切らなくなるんですが、パミールは寒くて果物ができませんし。

 ―それぞれの地域性を生かしたプログラム。

 そう。その隣の(研究室の)オフィサーがやっているのが東南アジアにおける海の環境汚染。これは測定装置を置いて各地でモニタリングをします。スリランカ人のオフィサーは洪水の制御と真水の有効利用をやろうとしています。フィールドはメコン川流域です。これも難しいですよ、流れが複数の国にまたがっていますから。国際河川における水管理の話からやらなきゃいけない。

 ―日本に還元できそうなプログラムも?

 日本人に直接的には関係ないです。自然系のプログラムは土地土地に規定されますから。例えばメコン川の研究はドナウ川では役に立ちません。そういう意味では、(国連大学の存在意義は)日本の国際貢献の一つとして認識していただくほかないと思います。日本の納税者の支援も得ているので、私個人は「納税者に対しては責任あるんじゃないか」と言っている。理解してもらうことによって、「国連大学が日本にあってよかったね」と日本の人たちにも思ってほしい。

 ―理解してもらう方策は?

 私個人もウェブを一生懸命充実させたりしています。あと、いろんな所に行ってでしゃばらなきゃいけないかな、と。日本に国連機関の本部があるのは唯一じゃないですか。日本にとっても国連大学は守るべき対象だと思うんです。

 ―最後にひとこと。

 残念ながらわれわれは日本社会に直接の貢献はできませんし、そういう意識も持ち得ません。ただ、世界全体の役に立つ機関を日本国民が支えてくれていることにわれわれは感謝しているし、支えてくれる人もまたよかったと思ってくれるような機関になりたいと念じています。

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やすい・いたる
東京生まれ。東大工学部合成化学科卒。一九九〇年、東大生産技術研究所教授。九六年、東大国際・産学共同研究センター長併任。九七年、全国産学連携センター協議会長。〇三年、国連大学副学長。五十九歳。

ラメシュ・タクール氏
(「平和とガバナンス」担当)
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「日本には特筆すべき平和憲法がある」と話すタクール上級副学長(国連大学)

理解の欠如が深刻な事態を起こす。それを補う懸け橋に

 ―ご経歴を。

 私は国際関係が専門で、紛争の研究をしていました。オーストラリア国立大の平和研究センター所長を務めていたので、(今の職務と)共通性はあります。当時(の研究対象)はアジア・太平洋でしたが、今は世界全体です。

 ―「平和とガバナンス(統治)」分野における国連大学の役割を。

 責務として任されているのは、研究して各分野の能力を高めることです。目前に迫る世界の脅威に対し、研究活動をしなければなりません。

 ―具体的には?

 世界中から学者と研究者を選び、研究します。そしてそれを論文にします。例えばこの本には三十人の学者が論文を寄せています。うち国連大学に属している人は三、四人です。ほか、カナダの元外務大臣やインドの首相経験者らが書いてくれています。つまり研究者だけでなく、世界各地で活躍しているさまざまな人に協力をお願いしています。

 ―それをコーディネートするのが国連大学のスタッフ。

 この本は私がディレクターをしたのですが、私の下のスタッフも同じ活動を繰り広げています。一人が一年に一・五くらいのプロジェクトに携わり、二年に三冊の本を出しています。この本は国連に勤めているスタッフと世界の優秀な学者の意見交換で作りました。

 ―研究が役に立ったケースを。

 三年前、不公平、不均衡が紛争を招くと論議になったことがありました。われわれは個人だけでなく地域の不均衡が紛争を招くと提起し、世界的にその主張が広まりました。ある研究結果によると、国連大学は国連の研究分野の70%を占めているそうです。

 ―研究活動のほかには?

 ティーチングコースも開催しています。現行は「人間の権利」など二コースです。基本的には誰でも参加可能で、博士課程の大学院生や外務省にいた人、ジャーナリストらが参加しています。

 ―大学本部で?

 はい、この国連大学本部で毎年五月半ばから六月末にかけて六週間開催しています。多くの国からさまざまな年齢層を集める場にしたいと考えています。三分の一が日本人、残り三分の二が外国からの人というのが理想です。できればお互いからいろんなことを学び合ってほしいと考えています。平和にとって大事なのは対話です。宣言ではなく対話の中にこそ平和はあるのです。

 ―対話が重要。

 国連大学は五つの責務を担っています。(1)国連のシンクタンク(2)学者の世界的コミュニティーを育てる(3)学者と政策決定者をつなげる(4)キャパシティービルディング(能力開発)(5)世界中にあるさまざまな問題の対話の懸け橋――です。対話の懸け橋というのはどういうことか。今、世界のいろいろな地域に充満している理解の欠如が深刻な事態を起こしています。その懸け橋になるというわけです。

 ―具体的には?

 会議を開き、例えばイスラムで起こっているテロリズムはイスラムのもともとのものではなく、イスラムへの冒とくが行われたために一部の人がやっているのだと説明します。そうやって対話を進めていくのです。もう一つの例を言うと、普段顔を合わせることのないインドとパキスタンの学者がコミニュケーションする機会を作ったりもします。国連にとって大事なのは学識を政策担当者らに分け合うことです。国連大学はそのための懸け橋になりたいと考えています。

 ―成果は?

 大学にとって、計りうる成果を挙げるのは難しい。研究や教育によって各人が(成果を)広げているからです。学位を与える大学ではないので、卒業生が何人いると言うこともできません。あえて言えば、まず本でしょうか。学識的で価値ある論文を次々と本にしています。本が出るまでに三年ほどかかるので、ブックレットを出したりセミナーを開いて政策担当者に投げ掛けてもいます。

 ―セミナーは世界各地で開いている。

 その時々、必要な地域でセミナーを開いています。地域における地域紛争を課題にすることもあるし、全体のことを話すこともあります。「企業の社会的責任」などのセミナーもあります。時や地域によってトピックが選ばれています。本部では一般の人が自由に聴講できる会議やシンポジウムもやっています。

 ―大学本部の会議場で?

 はい。ウ・タント国際会議場などで開いています。入場料は取りません。前米大統領のクリントン氏は通常三千万円の講演料を取るのですが、私たちの趣旨をくんで無償で講演してくれました。その講演を大勢の人が聴きに来ました。国家元首や学者など、世界の第一線で活躍する人たちに講演してもらっています。学者、学生にはよく知られているシリーズです。

 ―国連大学が日本にある意味を。

 国連にはさまざまな機関がありますが、アジアに本部があるのはここだけです。私たちの組織は小さくて、予算は東京大学の2%しかありません。しかしアジアに立地している意味は計り知れないと思います。

 ―最後に高知県民へのメッセージを。

 日本には特筆すべき平和憲法があり、それによって世界に多大な貢献をしていることを感謝しています。日本は平和で、秩序があり、機能している素晴らしい国です。国家は一つ一つの地域から構成されていて、地域が重要です。日本が世界各地域での平和維持の活動(ピース・キーピング・アクティビティー)に積極的に参加してくれるよう願っています。

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 ラメシュ・タクール インド生まれ。カルカッタ大卒業後、カナダのクイーンズ大で政治学博士号を取得し、ニュージーランドのオタゴ大教授。一九九五年、オーストラリア国立大学平和研究所長。九八年、国連大学副学長。〇三年、国連大学上級副学長。五十五歳。