国連大学について

Key Facts

設立
1973年12月6日の第28回国連総会で国連大学憲章が採択(国連総会決議3081[XXVIII])され、大学本部の東京首都圏内設置を決定。1975年9月より活動を開始。

職員
559名(出身国:約70カ国)

年間予算
年間予算 5,100万米ドル(2009年度)

幹部職員
コンラッド・オスターヴァルダー (学長)
ゴビンダン・パライル (副学長)
武内和彦 (副学長)

国連大学の使命

国連とその加盟国および国民が関心を寄せる、緊急かつ地球規模の問題解決の努力に、学術研究と能力育成をもって寄与すること。

国連大学の主要な役割

組織

理事会
国連大学の原則ならびに方針は国連大学理事会が決定します。

理事会は、国連事務総長とユネスコ事務局長が共同で任命する理事24名で構成されます。任期は6年。理事は出身国代表としてではなく個人の資格で理事会に出席します。理事会には、国連事務総長、ユネスコ事務局長、国連訓練調査研修所(UNITAR)所長の3名が職務上の理事として参加します。国連大学学長も理事会のメンバーです。

国連大学本部
東京

直属研究機関
世界各地に13の国連大学研究所・研修センター(プログラム)があります。

提携・協力機関
世界各地の30余の国連機関および100以上の研究機関

プログラム領域
地球変動とサステナビリティ」「平和と安全保障」「国際協力と開発」

研究テーマ別の取り組み

平和 ガバナンス 開発 科学・
技術と社会
環境
国際関係 人権・倫理 グローバル化
と開発
技術革新 資源管理
国連システム 民主主義・
市民社会
経済成長
と雇用
情報および
バイオ技術
持続可能な
産業と都市
人間の
安全保障
リーダーシップ 貧困と
基本的ニーズ
ソフト技術 水資源
武力紛争 ガバナンス 都市化 食糧と栄養 地球規模の
気候変動
国連大学システム全体での取り組み
グローバル化、地球公共財、人権、ジェンダー、食糧問題、水資源、フォーカス・アフリカ、中国

国連大学設立の経緯

『国際的教育・研究機関のネットワーク ― 国連大学の意義と現状を通して』

(相良憲昭著、国連大学広報部、1995年)から抜粋

ウ・タント構想

1969年9月15日、当時のウ・タント国連事務総長は第24回国連総会への年次報告の冒頭で、国連大学設置の構想を明らかにした。彼は「真に国際的な性格を有し、国連憲章が定める平和と進歩のための諸目的に合致し」、「多くの国々から集まった教授陣と、多くの国々からの、また異なった文化的背景をもつ若い男女の学生からなる」大学において、「学生たちは国際的な雰囲気のなかで共に暮らし、学ぶことによって、互いに一層理解しあえる」と考えたのである。そしてウ・タント氏はその大学が、「寛容の精神と思想の自由について、定評のある国に設置されなければならない」とも述べた。

上の言葉からもわかるように、ウ・タント氏が提唱した大学はキャンパスをもち、教授陣や学生たちからなる、伝統的な姿の大学以外のなにものでもなかった。このためにウ・タント構想に対して、国連の内外に少なからぬ反対の声が挙がった。とくに先進国の政府は、国連が新たな機関を設けることによって自国が負担すべき分担金や拠出金の額が増大することを憂い、また自国における主要大学が他国からの留学生を多く受け入れており、すでに十分に国際的な性格を有しているという理由のもとに、国連大学の設立に難色を示したのである。

一方、発展途上国の多くはウ・タント構想をおおむね肯定的に受け入れた。その理由は、一つには1960年代の「第一次開発10年計画」以来、国連の諸活動が途上国援助に大きく傾斜した結果、途上国における国連の評価が先進国と比べて相対的に高かったこと、二つには国連大学が自国の学術水準の向上に大きく益することになろうとの期待が大きかったことが挙げられよう。

数年にわたる国連とユネスコによる準備期間を経て、1973年12月に国連総会は国連大学憲章を採択した。憲章採択によって正式に設立が決定した国連大学は、「研究、大学院レベルの研修および知識の普及に携わる、学者・研究者の国際共同体」(国連大学憲章第1条1)であり、その機能は「企画および調整のための中枢機構ならびに先進国および開発途上国における研究・研修センターおよび研究研修プログラムのネットワークを通して」(同)果たされることになったのである。

キャンパスも教授陣も、また学生ももたない国連大学の活動は、「国際連合およびその専門機関が関心を寄せる、人類の存続、発展および福祉にかかわる緊急かつ世界的な問題の研究」(国連大学憲章1条2)であり、その意味では教育機関というよりは、むしろ学術研究機関としても色彩が濃厚なものとなった。

日本の熱意

ウ・タント氏による国連大学構想にいち早く関心を示したのが日本政府であった。国連大学構想を先進諸国がこぞって否定的ないしは冷淡に迎えたなかで、日本が積極的に反応したのにはいくつかの理由が考えられる。

第一に、高等教育を取り巻く当時の日本社会の環境変化である。1960年代後半に世界の主要国を舞台に吹き荒れた大学紛争は、わが国においても例外ではなかった。むしろベトナム反戦運動と結びついたアメリカや、労働者や一般市民まで巻き込んで「五月革命」とまで呼ばれたフランスにおける大学紛争に比肩しうるほどの激しさであった。この大学紛争を引き起こした原因の一つは、当時の日本の大学が伝統的な習慣や制度に過度に拘束され、社会の構造的変化に十分に対応できていなかったことが挙げられよう。とくに、高等教育の大衆化という社会的要請に応える体制が整っていなかったことを指摘しなければならない。

当時の日本の大学に欠如していたもう一点は国際性である。パリ、ボローニャ、オックスフォードなどヨーロッパの伝統的な大学は、その創設以来きわめて国際性が高く、各国の学生たちは文字どおりきゅう笈(きゅう)を負ってヨーロッパ中を移動しながら、学問にいそしんだ。そのような伝統を長く有するヨーロッパの大学や、ヨーロッパの伝統を継承したアメリカの大学では、今日でも教授や学生が学問のために国境を越えて移動することが当たり前となっているが、日本の大学はといえばその地理的、言語的、文化的、制度的諸状況のためにきわめて閉鎖的に発展してきており、国際性が乏しいといわざるをえなかった。1970年に訪日したOECDの教育調査団が日本の大学の閉鎖性を鋭く指摘し、世界参加のための大学教育を呼びかけたことは、教育関係者の間でいまだ記憶に新しいところである。国連が独自の大学を設立する構想をもったとき、日本の政府内部や教育界において、その大学を日本に誘致することによって現代社会における理想的な大学のあり方を模索するよい機会になるだろうとの期待がもたれたであろうことは想像するに難くない。

日本が国連大学構想に積極的に応じたもう一つの理由として、そのころようやく日本人が第2次世界大戦の破壊と、それに続く窮乏から完全に回復したとの認識を持ちえたことが挙げられよう。来日したウ・タント事務総長に国連大学構想実現への積極的協力を約束したのが、「もはや戦後ではない」と宣言した佐藤栄作首相だった。佐藤総理大臣はまた国連中心外交の提唱者でもあった。戦後経済の復興を果たした後、国連の枠組みを利用して国際社会に応分の貢献をするためには、国連機関の本部を誘致することが国益に合致するとの認識を当時の政府が抱いたこともまた当然であったといって過言ではない。

かくして、日本政府は国連に対して、国連大学の設立とその後の運営のために設けられる国連大学基金に1億ドルを拠出すること、首都圏に恒久的本部施設を無償で供与することなどを確約し、1975年に国連大学暫定本部が東京に設置される運びとなった。

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Page last modified 2009.11.19.


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